如春夜夢

発達障害児の子育て記録です。

ゴーゴリ「外套」

元々日本文学専攻なので日本文学ばかり読んでいたのですが、

主なところは読んだので、ふと興味を持ってゴーゴリの「外套」を読んでみました(青空文庫)

このブログには育児のことだけ書くつもりだったのだけれど、

久々に書き留めておきたいくらいの感慨を得たので書いておきます。

 

恥ずかしながらロシア文学ドストエフスキーの代表作(「未成年」を除く4つ)を読んだくらいで、

ゴーゴリについては何も知らない。

なので、的外れや誤りもあるだろうと思います。

 

読んだ後すぐに思い出したのが、なんか、あんまり通じないと思うけれど、

運の悪いヒポポタマス」という歌。

ひらけ!ポンキッキでやってた歌。

以下歌詞引用。

 


運の悪いヒポポタマス本当についてないヒポポタマス

月曜日 めでたく生まれたよ
火曜日 学校優等生
水曜日 かわいい嫁さんもらい
木曜日 苦しい病気にかかり

金曜日 どんどん重くなり

土曜日 とうとう死んじゃった
日曜日 お墓にうめられた

運の悪いヒポポタマス ついてないヒポポタマスの一生

これでおしまい これでおしまい

 

 

引用終わり。

 

主人公の官吏は一生懸命貯めたお金で買った外套を盗まれて

取り返そうとがんばるんだけど上級官吏に罵倒されたりして

ショックで風邪をこじらせてあっさり死んじゃうんですよね。

なんか、ついてないだけなんですよね。

 

主人公は、別段悪いことなんて何もしてない、生真面目で地味な仕事一辺倒の人なんですけど、

もう最初っからついてない感じがありありとするんですよ。

それは作者がそう描いてるんですけど。

 

外套を買うお金を貯めてたらうまい具合にボーナスが予想より多くもらえちゃったりして、

素晴らしい外套が手に入るんですけど、

私読みながら嫌な予感がひしひしとしましたもん。

ああきっとこの喜びはすぐ終わってしまうんだろうなって。

 

だって新調した外套を祝ってパーティーまで開くんですよ。

滑稽ですよね。

案の定その晩に外套は追い剥ぎにあって、その後彼は死んでしまう。

 

まあ人生なんてそんなもの。非情。無常。

因果とか生きる意味とか価値とかそういうこととは無関係に、こういう、どうしようもないもの。

 

。。。という話だと思いました。

 

で、そのあとざっとググってみたら驚きました。

人道的解釈というものがあるんですね。虐げられた人々への同情が描かれているという読み方が。

 

なるほど確かに主人公は虐げられている下級官吏ですし、彼に同一性を見出す「虐げている側の人間」も出てきますが、

そこにそんな重点を置いて読みませんでした。。。

 

さらに、幻想文学としての解釈もあるんですね。

確かに、主人公が死んだあと外套を奪い取る亡霊があらわれてます。

この亡霊も私は滑稽だなぁと捉えてしまいました。

死してもなお外套に執着している。

 

あと、やっぱり最後に主人公とは違う風体の亡霊が出てくる、それが重要ですよね。

これは追い剥ぎと同じものを示唆してると思うんですけど、

要は街には追い剥ぎがいるんですよ。人生をめちゃくちゃにする暴力的な奴がいるんですよ。

 

誰にでも、これは起こり得るし、誰の人生もこんなものということをあらわしているのではないでしょうか。

 

 主人公に同一性を見出す人や、主人公に冷たくしてしまったことを後ろめたく思う人が出てきますが、

この主人公が人生の非情さ、どうしようもなさを体現しているから怖いんじゃないでしょうか。

 

どんなに努力しても善行を積み重ねても何も悪いことをしていなくても、

些細な外套一つで明るくなり、そしてあっさりと終わってしまう、

誰にも抗えないどうしようもない人生というもの。

 

 

というふうに読んだので幻想性にもあまり着目しませんでした。

私の読解力って一体。。。

 

 

あと、もう少し。

 

語り手の存在と語り口。

これは絶対に外せない論点だと思うんですが、何しろロシア語がわからない、原典に当たれない。

この距離を置いた軽妙でユーモラスな語り口は、実際のロシア語のニュアンスだとどうなんでしょう。

 

 

寒さ。

えっとドストエフスキーを読んでても思ったんですけど、

ロシア文学って絶対厳しい寒さの影響が大きいですよね。

この話もロシアが超寒いってことがすごい大きな要素というか、

全体的な陰鬱さに繋がっている気がします。

語り口は軽妙なんですが全体的な雰囲気は陰鬱なんです。

 

と、ゴーゴリ、面白かったので他のも読んでみたいですが、

何ぶん時間にも金にも余裕がないので青空文庫が関の山です、本当に。 

 

 

 

 

 

夏風邪

まず始めに旦那が風邪をひき次に息子、その次に娘にうつった。


娘は高熱は出すものの、本人はけろっとしているタイプで食欲もおちないので回復もはやい。
9度の熱を出しながら歌っていたりして、案の定ピークは一日で終わった。


息子の方は逆に少しの熱でもぐったりして、
特に食事がとれなくなるので何日も微熱が上がったり下がったりでだらだらと具合の悪い日が続いた。
機嫌も悪く泣いてばかりだった。


さて、息子は偶然とか明確な因果関係のないものが苦手である。

じゃんけん、すごろく、トランプゲームの「戦争」などに負けたときに
どうして負けるのかどうしたら勝てるのかなどと怒る。
負けたことに怒るのではなく勝つ方法がないことに怒る。

もしくはスポーツで格下のチームが格上のチームに勝つというような番狂わせが起きると
それをうまく理解できない。

勝負は時の運任せでもなければ出来レースでもない。
それがわからない。


風邪をひいて半泣きになりながら、
どうして自分が風邪をひいたのか懸命に考えていた。
何が悪かったのか自分の行動をひとつひとつ列挙したり。


風邪なんてひくときにはひく、誰でもひく、いいひともわるいひとも皆ひく、
だからのんびり寝てなさい。


こういうの、受け止められるようになればもう少し楽になるだろうに。
なんか、こういう生きにくさを少しずつ融かしてあげたい。

ずいぶん久しぶりになってしまった

忙しいです。そして夏休みです。

子どもたちがずっと家にいます。疲れます。

夏休みは長いし猛暑で外遊びがあまりできないのでつらいです。

世の中の大抵のお母さんたちは夏休みが嫌いだと思います。

私もです。

ブログを書いている暇もありません。

 

まあ、

息子の動作性IQが130でさすがに驚いたりとか

就学相談に出かけたりとか

たまたま初めて行った小児科で初対面の先生に娘の言葉が遅いことを見事に言い当てられたりとか

いろいろあったんですけど

とりあえずはやく夏よ過ぎてくれ。物事を考える時間が無いわ。

いじめ

子どもたちを二人とも週一回発達支援施設に通わせている。

上の子は母子分離なため、普段は下の子につきっきりなのだけれど、たまたま時間の都合などが重なって上の子のクラスの自由遊びの時間を見る機会があった。

 

そこにいるそれぞれの子が発達においてどのような問題を抱えているのかはわからない。

わからないので、憶測も入るのだけど、そこでちょっとしたトラブルを見た。

うちの子は基本的に一人で遊ぶ子なので(ていうかむしろ人と一緒に遊べない子)、関係していない。

 

女の子A。普通に見えるが、自己中心的なので多分協調性に難があるのだろう。

女の子B。普通に見えるけど、Aの言いなり。

女の子C。話さないしこちらの言うことも聞いていない。自閉傾向が強そう。

 

AとBが積木でお城を作って遊んでいた。

Cがどうしてもその積木の上に横たわる。

AとBが怒って文句を言う。

Cには全く届いていない。Cはひたすら積木の上に横たわり邪魔をする。

(邪魔をしている意識も、文句を言われている自覚も全くなさそう)

それを何度か繰り返して、とうとうAがBに言った。

「Cちゃんに積木投げつけて」

Bは言われるがままに積木を投げつける。

Cはそれでも積木の上に横たわっていた。AとBのことは全く目に入っていない感じ。

 

私はそこまでいった時点で、「ちょっと喧嘩してるみたいですよ」と先生に言った。

先生が介入して、Cを引き離したのでAとBはまた積木で遊び始めた。

そこにDが来た。ちょっとぽっちゃりした大柄な女の子。

「一緒に遊ぼう」

A,B「Dちゃんはデブだから一緒に遊ばない」

先生がたしなめていた。Dはそう気にしているようにも見えなかった。

 

まだ年長、5歳前後の子どもたちである。

それでこうなるのだから、Cのような子はこの先もこうなる可能性がある。

そりゃあそうだ。

発達障害の子は多かれ少なかれ空気が読めなくて、人が嫌がっているということに気が付かなかったり、怒られていても全然平気だったりする。

あくまでも本人に悪気はなく仕方がないことなのだが、子どもにそれを受け容れろというのは酷な話だ。

苛立ちをぶつけたくもなるだろう。いじめの対象にしたくもなるだろう。

 

そしてB。

Bは随分Aに引っ張られていた。AがいなければBは積木をぶつけたりDに遊ばない、と言ったりしなかっただろう。

発達障害の子は自分で善悪の判断がつけられなかったりする。

これはさすがにしてはいけないだろうというラインのようなものがわからない。

数少ない自分と仲良くしてくれる者だったら、容易に言いなりになってしまったりする。

 

私は自分の子について、いじめられるのではないか、という心配と同時に、いじめる側になってしまうのではないか、という心配がある。

人としてこういうことはするもんじゃないんだよ、みたいな道徳とか倫理観を彼に理解させるのは難しい。

また、人が嫌がっているということを表情や様子から読み取ることが出来ない。

 

今のところ、そもそも友達とあまり関わりを持たないのでトラブルになったことはないが、

いつそうなってもおかしくはない。

 

このことは、常日頃から考えてはいたのだけれど、

年長児で既にそんな現象が起こっているのを目の当たりにして、ちょっと憂鬱な気持ちになった。

 

そろそろ小学校選びをしなければならない。普通級か、支援級か。

悩むなぁ。

 

 

 

 

問い

最近息子の質問が色々と難しくなってきた。

 

「もの」とは何か。

一応、普通は生き物以外の目に見える・触れられるものを「もの」ということが多い、とは言った。

言ったけど、カントの純粋理性批判を思い出した。

あと何年したら読めるだろう(遠い目)。

 

「自然」とは何か。

人間が作ったものではないもの、とは言った。

だけどキリスト教的な自然とアニミズムはだいぶ違うし。

今度はアリストテレスか。

 

「世界」とは何か。

これはうまく説明できなかった。どうしよう。ハイデガーだよ。

 

「神様」は生きているのか死んでいるのか。

参った。我々がよってたかって殺したんだよ。なんて言えない。

私たちの心の中に生きてるんだよ、なんていうことしか言えない。

 

子どもって難しいね。

 

 

 

病名

病名が変わるみたいですね。

ブコメでも少し書いたのだけれど。

 

「障害」を「症」に 精神疾患の新名称公表 (産経新聞) - Yahoo!ニュース

病気ではなく先天性の脳機能障害で、治療ではなくそのままで適応できるよう努めるのだから「症」が馴染まない気がする。当事者だけど「障害」で差別されてる気にはならないし。

 

こっちの方がまだ詳しいですかね。

子どもの病名、「障害」の多くを「症」に変更 (読売新聞) - Yahoo!ニュース

 

私がコメントしたのはあくまでも自閉、多動、学習障害についてです。

性同一性障害パニック障害などについては全然知見がないので何の意見も言えません。

 

えっと私も子どもが広汎性発達障害もしくは所謂アスペルガー障害の可能性があると言われたときに、

或る種のショックは受けましたが、それは「障害」という言葉の為ではありません。

「障害」→「症」に変わったところで子が抱えている特性が変わるわけではなし、そんなところに配慮されても困惑する、というのが正直な感想です。

 

しかし、世の中には「障害」と言われると大変な衝撃を受ける繊細な人がいるらしいです。

会ったことがないのでわからないのですが。

障害受容が難しいこと自体には同意しますが(私も苦労しています)、

言葉を変えたことによってそれが解決するとは思われないので、やっぱりよくわかりません。

 

うちの子に関わりのあるのは「アスペルガー障害」→「自閉スペクトラム症」というところですね。

うちの子は知能指数は高いがコミュニケーション能力は低いという典型的なアスペルガーのタイプです。

ここ最近、「発達障害」「ADHD」「アスペルガー」といった言葉は昔と違って随分認知されてきたように思います。

周囲の人に特性を理解してもらって受け入れてもらう、というのが重要なのに、

ここで病名が「自閉スペクトラム症」というあまり馴染みのないものに変わってしまうことにより、

返ってせっかくの理解が後退してしまうのではないか、という懸念も抱きました。

 

多くの人が「自閉症」と聞くと、カナータイプを思い浮かべるんじゃないかと思います。

しかし実際のところは知能指数や特性に幅があります。

だからスペクトラムなわけですが、一般の人には「うちの子、アスペルガーなんです」と言った方が理解されやすい気がしています。

 

また、自閉症は先天性の脳機能障害である、という事実。

これを私はわかってもらいたいのです。

親の躾の所為だ、育て方の所為だ、という誤解が自閉症児の親を苦しめてきました。

育て方に工夫をすることで社会に適応し易いように促していくことはできます。

でもそれは例えば耳の聴こえない方が手話を覚えたり読唇ができるようになったりするのと同様で、

あくまでもこの社会で生き易くするための工夫であって、治ったりなくなったりするわけではないのです。

病気ではなく障害なんです。

 

だから、やはり、障害→症という言葉に変えることの意義を私はあまり見出せません。

結局は人それぞれの感じ方で、どうしても「障害」という言葉が嫌な方もいるのかもしれません。

また、disorderを障害と訳すことにおける医学的な問題点などは知識が乏しいので意見を言えません。

あくまで、個人的な、感想として、です。

 

 

ハーネス

話題になってますね。
発端のとくダネ!も見てました。怒りながら。
まあ大体の思うところはブコメなどでも言い尽くされているので、
発達障害児の親としてちょっと書きます。
ちなみにうちの子は二人ともハーネス使いませんでした。
上の子は不安感が強すぎて片時も私から離れず下の子は歩くの大嫌い抱っこ万歳な子なので。


色んな子がいるんですよ。
感覚過敏で手を繋げない子。
聴覚過敏で街中の音が同レベルで洪水のように聴こえるため制止の声が届かない子。
過集中のため何か気になるものがあるとそれしか見えなくなってものすごい力で走っていく子。
多動傾向が強く比喩的な意味ではなく一瞬たりともじっとしていられない子。


そりゃ、出来ればハーネスなんて使わないで済ませたいですよ。
でも使わざるを得ない子もいるんですよ。
外側から見たらわからない事情があるかもしれないんです。
だからどうかそっとしておいてほしい。
犬みたいって言われてること知ってますよ。
でもそんなことより子の命の方が大事だから使ってるんです。


子どもを連れてると何故か色々言われるんですよね。
普通、街に薄着の人が歩いていても「風邪ひきますよ」とか言わないじゃないですか。
でも子連れだと赤の他人に声かけられる。
親切な人もいるけど、そうじゃない人もいる。


こんな暑い中連れ出すなんて可哀想。
こんな寒い中連れ出すなんて可哀想。
靴下履かせないで可哀想。
毛布から手が出てて可哀想。
昔はみんなおんぶしてたのに前向き抱っこなんて可哀想。



全部言われたことありますよ。
何度履かせたって靴下勝手に脱いじゃうんだよじゃあお前履かせてみろよ。
とか言いたくなりますよ。



私は子が発達障害で、子に対してかなり特殊な対応をしてることもあるので、他人の無責任な言葉なんて気にしないようにしてますが、
自分自身も人には何かこちらにはわからない事情があるかもしれないという想像力を持つようになりました。
他人には見えないことなんてたくさんあります。
どうか、放っておいてほしい。



あんまりこう言うことは言いたくないのだけれど、
電車にベビーカー問題といい、
子連れって何か憎まれているのだろうかと卑屈な気持ちになったりもします。
どうせ、子どもがちょろちょろしてたらそれはそれで文句言われるんでしょう、みたいな。
もっと率直に、じゃあお前が育ててみろ、一時も目を離さずにな!と言いたくなったりもします。



でも喧嘩をしても仕方がないので、
やはり、どうか放っておいてほしい。になるかな。
別に違法品を使っているわけでも犯罪をしているわけでもなく、
子を守るために一番必要だと、その子のことを一番よく知ってる親が考えてハーネスを選択しているだけなのだから。