如春夜夢

発達障害児の子育て記録です。

凸凹

上の子。

先日病院で発達検査の結果を聞いてきた。
1年前に受けたのと同じ検査で、この1年の変化をみるために受けた。



正直、ショックな結果だった。
グラフの振れ幅がより大きくなっていた。
定型発達の子ならほぼ真っ直ぐになる筈の線は激しく上下していた。
言語能力、数学的思考力はグラフの目盛りを突き抜けるくらいの最高値。
一方基礎的能力(身体の機能における)はあまりに低くて危険ゾーン。


そりゃそうだ。
年長だが彼は今3桁×3桁の掛け算を難なく行い小学校三年生レベルの読解が出来る。
一方、ボールもまともに投げられない、ブランコが漕げない、片足で立っていられないなど、身体的能力は三歳児程度しかない。
凸凹があり過ぎる。


親としては、それでもこの1年、週1回施設に通い月1回作業療法士の訓練を受けることで随分彼の能力が伸びたと感じていたのだ。
出来ることがずいぶん増えた。苦手意識に凝り固まりひたすら拒否していたものにも取り組めるようになった。
少し、定型発達の子との距離が縮まったのではないかと思っていた。


しかし検査をしてみれば一年で定型発達の子だって成長するわけだから、
その成長においつくわけもなく、差はそのままだった。
定型発達の子が何ら特別な訓練も必要とせずに自然と出来ることを大変な苦労をしてようやく少し出来るようになった、程度のことだったというわけである。


作業療法士の先生は苦手なものは苦手なのだから仕方ない、得意なことを伸ばしていきましょうという意見だった。
私もそう思う。
彼はとにかく自信がない。自分が他の子のようには出来ないことに気付いている。
だから、彼の自己肯定感を高めてやることが何よりも優先される目標なのだ。
彼はがんばっている。
しかしがんばっても出来ないこともある。
それを無理にやらせ続けていても自己評価が低くなるばっかりだ。
だから、得意なことを伸ばしてやり、自信をもって生きられるように道筋をつけていく。
正しい方針だと思う。
運動面は、せめてこれ以上差が広がらないようにサポートしていくしかないのだろう。


頭ではそうわかっている。
しかし、あまりに凸凹なグラフはやはりショックだ。
自分が楽観的に過ぎたことを突き付けられる。


来年は小学校入学だ。あと一年もない。
幼稚園とは比べ物にならない苦労が彼を待ち受けているだろう。
親としての覚悟を新たにした。

母の日

母の日は幼稚園でお母さんの絵を描いて持ってくる。
今年もありがたく頂戴した。
あまりにも上手なお母さんの顔を。


うちの幼稚園では絵や工作において自由画を制作することがほぼない。
同じ構図で同じ色で同じ描き方で先生の指導に従って全員が決められた通りに絵を描く。
出来なければ先生が手伝う。
壁に貼り出された絵は皆同じである。



それについて親たちの反応は賛否両論であるが、どちらかというと否の方が多い。
下手でも子どもたちが子どもたちなりに考えてがんばって描いた絵の方がよいというのである。



私もそう思っている。
私はたとえお化けのような自分の顔の絵や単なるぐるぐるの殴り書きを母の日にもらっても一向に構わない。



しかし、うちの子は普通の子と少し事情が異なる。
彼は極端に手先が不器用なのと表現が苦手なため絵は端的に物凄く下手だ。


大好きな電車の絵を描くのでも
まず短い縦の線を引き、
次にそれより少し長い横の線を引き、
長方形を描いて、
それの下の辺に丸を四つ描いて車輪にしてみよう。
長方形の中に四角をいくつか描いて窓にしてみよう。

というように細分化して手順を教えてあげないと全く描けない。



また、「遠足で楽しかったことを描きましょう」「運動会の思い出を描きましょう」といった課題だと、
何を描けばよいのかわからないので本当に紙が真っ白になる。



そういう子にとって、誰にでも一定のレベルの絵を描かせる幼稚園の方針はいいのかもしれない。



親がいうのもあれだがうちの子は不必要に賢いので
自分がどうしても他の子のようには絵が描けないことに気付いている。
他の子のように描けるべきなのに、と思っている。
そして一生懸命やれば下手でもいいんだ、という考え方は彼の中にはない。
彼は出来ない自分に傷ついているだろう。



だから、彼の精神の安定を考えるなら、いいやり方なのだろうか、と
複雑な思いで明らかに先生の手がくわえられた上手すぎる母の絵を見ていた。



前に近所のスーパーに幼稚園経由で飾られた「夏休みの思い出」の絵は一人だけ真っ白だった。
つい先日英語教室でやってきた塗り絵は動物たちが全部青色でぐちゃぐちゃに塗り潰されていた。



そのときの息子の気持ちを思った。
それでも私は息子が自分で描いた方がいいけれど、
一生懸命やれば下手でもいいのよ、なんていう慰めは、
どうやっても出来ない彼の心を何も救いはしない。


あ、もちろん、
母の日の絵を受け取ったときにはめちゃくちゃほめちぎりましたよ。

逆さバイバイ

下の子。


発達支援施設の見学にいった。
といっても上の子が通っているところなので目新しいことはない。
先生方も信頼している方々ばかりだし、プログラムも有効性の高いものであることは上の子で実証されている。


見学後すぐに、正式に通うことを申し込む。
それでいいのだ。
いいのだけれど、心はもやもやしている。


原因はわかっている。
私は認めたくないのだ。
下の子は発達障害の疑いがあるといわれたけれど、
ちょっと言葉が遅かっただけでもう定型発達に追い付いているのではないか。
心配しすぎなのではないか。


夫と話し合った。
正直上の子は明らかに広凡性発達障害で疑う余地もなかったので逆にすんなり受け入れられた。
しかし下の子は微妙だ。
まだ三歳になってないこともあり親から見てもよくわからない。
ただ結果的に定型発達であっても発達支援を受けることが害になるわけではないのだから、
やはり通園しようという結論になった。


だから、申し込んだのだけれど、
「普通の親子」が羨ましい。
なかなか割り切れない。
障害受容は厳しい。


ああでも、彼女はあと僅かで三歳になる今でも、相変わらず逆さバイバイしか出来ないしつま先立ちで走り回っているじゃないか。


そんなつまらないことは気にせず純粋に子育てを楽しみたかったけれど、
知識もついてしまった今はそれも難しい。
通園したら確実に成長するだろうから、それをあたたかく見守ろう。


そう自分に言い聞かせた。

大丈夫?

愚痴。


私にはちょっとした持病があって、疲れがたまったり寝不足だったりすると症状が出やすくなるのだけれど、
先日ひどく具合が悪くなってしまった。


何とか幼稚園のお迎えから帰宅して、
それから頭が割れるように痛いのと動悸吐き気で動けない。
動けないのだけれど、
うちの子どもたちは帰宅してから手を洗ってトイレにいって着替えておやつを食べるという手順を守りたがる。
それはもう厳粛に。


だから無理していつも通りの手順をこなしておやつを用意したあと、
とうとう床に倒れこんでしまった。
文字通り動けない。


だけど、上の子にはそんなこと関係ない。目に入っていない。
おやつのあと、「ママと遊ぶ」という予定をいつも通りに進めたい。
遊ぼう遊ぼうとうるさいので、
ママは具合が悪くて動けないから今日だけはどうか許してくれと懇願した。


そうしたら倒れている私に向かって、
じゃあ4時までなら休んでてもいいよ、と言う。
時刻は3時55分である。あんまりだ。
違うんだ、今日は具合が悪いから予定を変更したいんだ、見ての通りママは動けないんだ。


朦朧としながら噛んで含めるように何回も説明してやっと諦めてくれた。



仕方がない。
彼には悪気はない。
予定をこなしたい、それがまず頭にあってそうなると目の前の現象なんて見えない。
責めてはいけない。


仕方がないのだけれど、
大丈夫?
の一言を聞きたかった。
それができるようになるだろうか。

怪我をして泣いている女の子の絵を見て、あなたなら女の子にどんな声をかけますか?
みたいなテストをどこかでやった。
彼は「泣いているね」と言った。
こちらにとって当たり前のことを教えるのは難しい。

ブンバ・ボーン!

「おかあさんといっしよ」の新しい体操すごい。
上の子は4年見ていたぱわわっぷ体操をただの一度も踊ったことがないのに、
ブンバ・ボーン!はずっと歌いながら踊ってる。
歌詞も振り付けも完璧に覚えてる。
下の子もあっという間に覚えてよく歌ってる。
私は変な体操、と思ってた。
他のお母さんたちに聞いても前の体操の方が評判がよかった。
だけど子どもたちからの評価は結構上々らしい。
子どもだけにわかる良さみたいなものがあるんだろうな。

しかし歌も躍りも基本大嫌いな上の子がこんなに気に入るのは画期的だ。
ありがとうブンバ・ボーン!

春爛漫

天気がよかったので久々に車を出してアスレチックや大型遊具などのある広い公園に行った。


上の子は臆病なのでこの公園に馴染むのにも結局2年くらいかかったと思う。
誰が見ても楽しそうなミニSLなども彼の場合完全拒否から始まる。
どんなに説得しても、彼の中でこれは大丈夫なものだと納得がゆくまで取り組むことはない。

それが今では弁当を持って一日遊べるくらいになったのだから本当によかった。

体の動かし方が下手なので、アスレチックは親付き添いのもとゆっくりゆっくりしか出来ず、
他の子に急かされることもしばしばなのだけれど、
彼なりに一生懸命取り組んでいる。


一方で下の子は体を動かすことは得意で、
上の子がおっかなびっくり登るアスレチックなんかを
軽々と登っていく。
二人の運動能力は拮抗している。
というかむしろ妹の方が上回っている。

そんな二人の姿を見て色々考えたりもするけれど、
とりあえず子どもが楽しそうだと親もしあわせだ。
がんばろう、と思う。

期限

上の子。

 

彼は見通しの立たないことは嫌いである。

なんでもきっちりと予定を立てて期限を決めるのが好きである。

期限がはっきりしていると安心する。

 

先日、(彼にとっての)祖父が遊びに来た。

彼は祖父のことがとても好きであるが、祖父にまず言ったことは

「おじいちゃんいつ帰るの?」

である。

悪意はない。本当に純粋に「いつ帰るのか」ということが知りたいだけだ。

それがわかっていると彼は安心するからだ。

しかし、一般的な感覚においてはそれはまるで帰るのを催促しているかのようだ。

世間のルールではそういうことを言うものではないのだ、ということを教えなければならない。

 

また或るときは、彼の父(私の夫)がお気に入りの音楽を聴いていた。

彼はまた、

「いつ終わるの?」

と言ってしまった。

夫は「そんなに嫌なのか」と不快の念を露わにした。

そうではない。

ただいつ終わるのか、期限が知りたいだけなのだ。

そうじゃないんだよ、と私は夫に対して取り成さなければならない。

一方彼は何故父の機嫌が悪くなったのかわからないだろうから、彼に対してもそういうことは言うものじゃないんだ、と取り成さなければならない。

 

ああ、実の父親にだってわかってもらえないんだから、

これから彼はどれだけ誤解を受けるんだろう。

世間一般の感覚、それが正しくて、彼が間違っているというわけではない。

ただ数の多少であって優劣ではない。

だけど、多数に合わせないと生きにくいだろう、それが現実だ。

 

彼に尋ねられたことがある。

数は何処まで大きくなるの?一番大きい数は何?

その逆も。

上限は無いのだ、何処までも大きくなるし、また、下限も無く、限りなくゼロに近づいていくだけなのだ。

そう説明したら、彼はひどく泣いた。

果てしなく大きくなり続ける数、期限はない、何処までも何処までも続く数。

それは彼にとってどれ程恐ろしい深淵で、闇であるのだろう。

彼にしか見えない闇だ。

 

彼に見えているものは私には見えない。

だけど、どうにかして、闇から目を逸らす方法を教えてあげたい。

少しでも安心して生きられるように。

難しい。